宇宙年表逸話

資料のフリをした逸話集しかも又聞き
あんまり資料的な価値はないっぽい

 

ソ連のロケット

■ソ連のロケットの呼び名
冷戦時代、ソ連のロケット類にどういう呼称が用いられているかわからなかったため、西側では仮の記号を付けて分類していました。

○アメリカの研究者シェルドンが分類した「A」「C」「D」「J」「F」のアルファベットと数字の組み合わせによる分類
○ペンタゴンの分類による「SL-**」分類
○NATOによる「SS-**」分類

などが代表的な分類法です。例えばヴォストーク宇宙船を運んだタイプのロケットは、シェルドン式で「A-1」、ペンタゴンでは「SL-3」と呼ばれていたわけです。NATOのSS表記は兵器(ミサイル)に対するもので「SS-18 サタン」など仮称と共に名付けられていました。ソ連ではヴォストークの打ち上げロケットを単に「ヴォストーク」、ソユーズの打ち上げロケットは「ソユーズ」。 惑星探査船の呼び名を見ても、火星探査船が「マルス(=火星)」金星探査船が「ヴェネーラ(=金星)」と、多くはそのまんまの名前のようです。

[表記の例]

ソ連での呼び名
シェルドン表記
ペンタゴン表記
ソユーズ
A-2
SL-4
プロトンK
D-1-e
SL-12
ゼニット
J-1
SL-16

 

■ソ連のロケットの特徴
ヴォストークやソユーズなど、R-7(大陸間弾道ミサイル)から連なる「A型」のロケットは、中央のコア・ロケットの下方に、取り囲むように4つの小さなロケットを付けた独特な形状をしています。小さなロケットを複数まとめることでパワーを増す「クラスターロケット」という方式です。アメリカなどでは多段ロケットを下から「第一段ロケット」「第二段ロケット」などと呼ぶのですが、ロシヤでは基部に付けられた小ロケットの束を「ゼロ段」と呼ぶようです。

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逸話集

1897:「ツィオルコフスキーの式」が誕生

1957年、帝政ロシアの時代に生まれたコンスタンチン・E・ツィオルコフスキー(Konstantin E. Tsiolkovskiy 1857-1935)は、独学で数学と物理学を学び、教師をしながらロケット推進の研究を行っていた。

1897年にツィオルコフスキーは、
・点火時のロケットの重量
・燃焼後のロケットの重量
・噴射ガスの速度
という3つの変数を用いてロケットの最終速度を導き出す「ツィオルコフスキーの式」を定式化。理論上、宇宙旅行が想像の世界から現実の技術開発へと移った瞬間だった。とか書いていますが、詳しくは(理解不能につき)説明不可ですすいません。どういう条件でロケットは速く飛ぶのか書いてある式ってことで、よろしいんでしょうか。

ツィオルコフスキーは他にも液体燃料ロケットや多段式ロケット、クラスターロケット(エンジンをいくつも束ねた形式のロケット)、宇宙ステーションなどのアイデアを残し、宇宙開発の父として今でも尊敬を集めています。

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1957:世界初の人工衛星、スプートニク1号の打ち上げに成功[無](Sputnik/СПУТНИК『衛星』、『旅人』の意味)

先立つ55年、ソ連はバイコヌール(現・カザフスタン)にミサイル実験場を造成してR-7の発射試験を成功させました。これはソ連初のICBM(大陸間弾道ミサイル)で、強力パワーを買われて衛星運搬ロケットに採用されました。そして1957年10月4日、R-7の転用ロケットに直径58センチ・重さ83.6キロの球形をした人工衛星スプートニク1号が搭載され、打ち上げ。信号音が地上で受信され、衛星の放出と稼働が確認できました。

衛星の成功は世界中で大反響となり、その影響力に注目した書記長フルシチョフは、11月7日の革命記念日に向けて「革新的なもの」を打ち上げよと命令します。わずか1ヶ月後の11月3日、スプートニク2号打ち上げ、成功。2号は重さ500キロ・全長27メートルと1号に比べてかなり大きく、気密室の中に生きた犬を乗せていました。

スプートニクを打ち上げたR-7ロケットは、兵器としては成功しなかったものの、その後のソ連/ロシヤの主力を担う運搬用ロケットとして発展していきます。

■関連リンク
スプートニク1号の信号音横浜子ども科学館のページより。wavファイル、113k)

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1961:ガガーリンがヴォストーク1号で人類初の宇宙飛行[有]

■ガガーリンの1時間48分
西側に先がけて有人宇宙飛行を実現し、社会主義の優位性をアピールせよとのフルシチョフの命により、開発されたヴォストーク1号(Vostok/ВОСТОК 『東方』の意味)。1961年4月12日、空軍中尉ユーリ・ガガーリン(当時27)を乗せて打ち上げられ、地球を周回して帰還することに成功しました。帰還までわずか1時間と48分という、最も遠い日帰り出張を振り返ると。

 -09:07 am[モスクワ時間]バイコヌール基地を出発、 高度約300kmで地球周回軌道に乗る

 -09:22 am - 南米上空を通過、最初の報告「飛行は順調に進行中。気分は良好です」

 -10:15 am - アフリカ上空から通信「飛行に問題なし。私は無重力状態に良く耐えています」

 -10:25 am - 地球一周を達成。ロケット逆噴射(40秒)により周回軌道から離脱する

 -10:35 am - 高度7,000mで座席を射出。高度4,000mで座席を投棄してパラシュートを開く

 -10:55 am - ソ連のサラトフ地域に着地。少佐に昇進

 -10:59 am - 救援チームが現地に到着

ソ連のラジオは「世界初の宇宙船ヴォストークが人間を乗せて地球を周回中。搭乗者はユーリ・ガガーリン空軍少佐」と放送したということなので、飛行中に昇進したんですね。ガガーリンは寝椅子のような形の座席に着いており、操作パネルはロックされていて、自分で宇宙船を操縦することはできませんでした。

内陸に降下したのはソ連に適当な海がなかったからです。そのため帰還カプセルから座席を射出して、カプセルと飛行士は別 々にパラシュートを開いて着地するという方式が採られました。ガガーリンの着陸にはおもしろい逸話があり、ガガーリンが周囲を確認すると牛を連れた農婦とその孫娘が彼を見ておびえていたといいます。人々が寄ってきて「もしやあなたは、ラジオで言っているガガーリンさんですか」と尋ねるので、ガガーリンは「その通 りです。いま宇宙から帰ってきたところです」と答えたとか。本当?!

帰還後ガガーリンが「地球は青かった」(青いカサがかかっていたというニュアンスらしい)と話した言葉も有名になりました。このコメントは「私は神の姿を探したが、どこにも見当たらなかった」と続くそうです。社会主義国の代表らしいと見るか、ロマンチックなコメントと取るか。

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1963:初の女性宇宙飛行士テレシコワが、ヴォストーク6号で地球を周回[有]

飛行クラブに所属していた工場労働者のワレンチナ・V・テレシコワは、労働者の代表として宇宙飛行士に選抜されました。当時26歳。パラシュート降下訓練などを経てヴォストーク6号に搭乗、1963年6月16日の打ち上げで女性として初めて宇宙に出ました。同船は48時間前に打ち上げられていた5号に近い軌道に乗ってドッキングのシミュレーションを遂行。地球を48周、70時間50分ののちウラル地方南部に帰還しています。

航行中、彼女のコールサイン(通信時の符号)は「カモメ」でしたが、「こちらカモメ…」という呼びかけが「わたしはカモメ」と素敵な訳で伝わったため、テレシコワのイメージは可憐な女性飛行士に。実際の所、宇宙のテレシコワは無重力状態による体調不良で苛立ち、窓を叩いてヒビを入れたり、地上との交信で礼儀正しい応答が出来ないなど可憐とはいかなかったようです。

そのためソ連は「女性は宇宙に向かない」との結論で訓練中だった女子宇宙飛行士部隊を解散。この時反対しなかったテレシコワを批判する声もあります。ソ連で二番目の女性宇宙飛行士は、19年も後のスベトラーナ・サビツカヤ(サリュート7号に8日間滞在)を待たねばなりませんでした。

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1964:初の三人乗り宇宙船ヴォスホートが地球周回[有]

月や惑星への有人飛行をにらんだ複数人数乗りの宇宙船開発が急がれていた頃。64年10月13日に打ち上げられたヴォスホート1号(Voskhod/ВОСХОД 『日の出』の意味)には3人の飛行士が搭乗し、複数座席の宇宙船かと西側を驚かせました。

実は1人用のヴォストークを改造して3人を乗せたもので、スペースや重量の関係から脱出装置も省略、飛行士たちは宇宙服もなしでぎっしり座っている状態だったとか。帰還の際は構造上座席を射出することが出来ないため、減速ロケットとパラシュートでカプセルごと着地しました。

翌65年には改良された2人乗りの2号が飛行、レオーノフが人類初の宇宙遊泳を敢行しました。筒状の気密室をふくらませて宇宙に出てみると、気圧の変化で予想外に宇宙服がふくらみ、手袋がパンパンに!あわてて減圧してしのぐなど「人類初」特有の危機に見舞われたようです。しかも2号は帰還時の故障で減速ロケットを手動点火、予定外に雪山の中に落ちるなど最後まで大変でした。飛行士たちは数時間後に救出されたといいます。数時間で済んで良かったね。

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1967:ソユーズ1号帰還失敗、乗員1名が死亡[有]

ソユーズ宇宙船(Soyuz/СОЮЗ 『団結』の意味)は改良を繰り返しながら今にいたり、宇宙ステーションへの人員運搬用宇宙船として安定した運用がなされています。初期には死亡事故もあり、1号では大気中でメインと予備のパラシュートが共々開かず地表に激突。11号では減圧装置の故障で船内の空気が失われたため、乗員3名が死亡しました。危機はつきものとはいえ、壮絶な事故ですね。哀悼。

軌道上のソユーズ宇宙船は以下の3つの部分から成っています。

・ 軌道船:軌道上での作業室
・ 帰還船:帰還用カプセル
・ 推進船:推進用エンジン

つばさのように開いた太陽電池パネルを持ち、先端部分のドッキングポートで宇宙船同士または宇宙ステーションと合体可能です。帰還の際には帰還船だけが外れて大気圏に突入、パラシュートを開いて着地します。

最近のロシヤは中国の宇宙計画をバックアップしているようで、中国はこのソユーズをベースにして「神舟(Shenzhou)」宇宙船を開発したという話。神舟の形はソユーズに似ていますが、使われている部品にコピーやライセンス品はなく、中国独自の開発ということです。

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★まぼろしの月ロケットN-1 僕たちの失敗

N-1[Н-1]は月面有人探査にやる気満々だったソ連が、月探査船の運搬ロケットとして選択したものです。衛星の運搬など多目的使用が可能なロケットということで、全長はアメリカのアポロ計画で使われたサターンVより微妙に小さい105メートル。三段構造で、第一段には30基、第二段に8基、第三段に4基のエンジンを搭載、43メートルある一番上のコンポネントに月周回・着陸船を収める仕組みでした。前段が落ちる前に次の段のエンジンが点火する仕組みで、空気を通 すため段の継ぎ目が網目の構造になっていました。

N-1は10機作られ、4回行われた無人の発射試験は全て失敗。69年7月、バイコヌールでの第二回発射試験は発射台ごと吹き飛ぶ大爆発事故となり、アメリカの偵察衛星にキャッチされました。これを後目に同月20日、アポロ11号の着陸船が「静かの海」に着陸。ソ連は月面 到達競走に敗北してしまったのです。

N-1の失敗は、強力なエンジンを開発できなかったのが原因といわれます。仕方なく複数のエンジンを搭載したことで 調整がむずかしく、問題の多いロケットになったのだろうというのです。

有人月探査の計画は1974年に廃棄され、N-1の残りもスクラップになりました。この後のソ連は無人探査船による宇宙探査で成果 を上げると共に、人間を宇宙に滞在させる宇宙ステーションの開発へと向かっていきます。

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★1970:ルナ17号月面着陸、無人月面車ルノホート1号で月面探査[無]

ソ連が月方面に送り込んだ「ルナ」シリーズは1号から24号まであります。59年に飛んだルナ1号は、月を通 過して太陽周回軌道に入り人工衛星ならぬ人工惑星と呼ばれました。同2号は月面に衝突して壊れてしまいましたが、3号は月の裏側の写 真を送信してきました。関係ないですが子供のころその写真を見て、とても怖かった覚えがあります(注:リアルタイムで見たわけじゃないぞ)。ボンヤリしているところが念写 みたいで、オカルトっぽかったな。

続くルナシリーズの中には2号のように月面に激突したもの、月をまわる軌道に乗ったものの他、月の土や石のサンプルを採取して地球に帰還したものもあります。白眉は無人月面 車・ルノホートの活躍。ルナ17号に搭載されていたルノホート1号(Lunokhod/ЛУНОХОД)は着陸船から降りると遠隔操作により走行、およそ1年の間10kmあまりを移動してデータを地球に送信しました。ちょっと洋式便器に似た形の本体(失礼)に8つの金属製車輪がついており「便器のフタ」部分を開けると裏面 に太陽電池が。ルノホート2号には月の寒気から機器を守るための放射性熱源を内蔵され、夜は止まって暖まっていたそうです。5ヶ月走行したところで故障しましたが、こちらも多くの調査を行いました。

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1971:宇宙ステーション、サリュート1号を打ち上げ[無]

月面到達競争後、人員を宇宙に滞在させる宇宙ステーションのプランが浮上してきました。ソ連が最初に打ち上げたサリュート(Salyut/САЛЮТ 『敬礼』の意味)1号は全長15m、最大直径4.2mという大きさで、野菜の栽培室まで付属。無人で打ち上げられたあとソユーズ10号で人員が向かったものの、ドッキングポートのトラブルで移乗出来ずソユーズは帰還。続いて打ち上げられた11号はドッキングに成功し、3人の飛行士が初の宇宙ステーション滞在を果 たしました。しかし任務を終えて帰還する際の事故によって11号の乗組員は全員死亡してしまいます。

サリュート1〜7号のうち2・3・5号は「アルマース」と呼ばれるシリーズで、なんと宇宙軍事基地でした。サリュート2号(アルマース1号)には機銃など武装まで備わっていたといいます(何を想定していたんだろうか)。3号は地上偵察任務を完遂、5号はトラブル続出で乗員が緊急脱出。初期の宇宙ステーションはなかなか多難だったようです。また宇宙空間の軍事利用に興味津々なソ連の姿が伺われ、興味深いところでありますね。

本来の課題である「人間を宇宙に滞在させる」ということについては、最長滞在記録184日、滞在のべ人数62人と充分な成果 を得たサリュートシリーズ。これらの経験はミールに引き継がれていきます。

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1976:政府、エネルギヤ・ブランの開発を公式に承認

■再利用可能な宇宙船
アメリカのスペースシャトルのように、何回も使えるタイプの宇宙船がブラン(Buran/БУРАН、大吹雪の意味)です。形も色もシャトルにそっくり。大型ロケット・エネルギヤ(Energia/ЭНЕРГИЯ、エネルギー・力の意味)で打ち上げられ、大気圏再突入後は滑空して着陸する仕組みでした。エネルギヤはズングリと太いコア・ロケットの回りに4本のブースターをつけた形で、ブランを乗せた姿はやっぱりスペースシャトル&外部燃料タンクのセットを思い起こさせます。ブランの他にも低軌道上に30トン、2段ロケットを使用してパワーアップすれば90トンもの荷物(ペイロード)を運ぶことが出来ました。

大気中の飛行テストを経て、いよいよ88年にブランの一号機がエネルギヤで打ち上げ。この時は生命維持システムのチェックがまだ終了しておらず、ディスプレイ類にもソフトウェアが入っていなかったため無人での飛行となっています。

ブラン一号機は地球を2度回ってバイコヌール基地に帰還。その成功にも関わらず政変の影響で予算はカットされ、ブラン開発計画は1993年廃棄。飛行を予定していた二号機「Ptichka(ПТИЦКА、小鳥)」号も飛ぶことはありませんでした。

ソ連解体後、2機のブランはカザフスタンの所有物となり、今も倉庫にしまわれています。大気中テストモデルの中にはゴーリキーパークやなぜかオーストラリアの港で展示されているものも。機会があれば間近に見ることが出来るかもしれないですよ。

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